エジプト基礎情報~歴史
「エジプトはナイルの賜物」というヘロドトスの有名な言葉があるように、エジプトはナイル川の恵みを得て世界4大文明の発祥地の1つとして輝かしい古代エジプト文明を築いた。しかし紀元前525年に新王国がペルシャによって滅ぼされ、前4世紀にはギリシャ(アレキサンダー大王の遠征、プトレマイオス王朝)に、そして紀元前30年にはローマの版図に入った。
7世紀にはアラビア半島でイスラム教が誕生し、エジプトは第2代カリフ・ウマルの治世にその支配下に入り、今日のエジプトのイスラム教国としての基盤が確立された。
10世紀に興ったファーティマ朝はカイロを首都としてイスラム文化の中心として繁栄し、北アフリカ全土を統一してイスラム化を進めるとともに言語もアラビア語が普及し、この地域のアラブ化が進んだ。その後エジプトにはアイユーブ朝、マムルーク朝が続き、16世紀にはオスマン・トルコの一州に組み入れられた。
2.オスマン・トルコ時代~ムハンマド・アリー王朝の成立 |
しかし、3世紀にわたって続いたオスマン・トルコの支配は次第にマムルーク(半封建的領主)による支配に変質し、次第にエジプトの政治は混乱しその衰退をもたらした。
1798年のナポレオンのエジプト遠征に対して派遣されたアルバニア出身のムハンマド・アリーによる王朝の成立(1805年)を導き、エジプト近代化への道が開かれることとなった。
3.王朝時代~1952年クーデター~第3次中東戦争 |
その後エジプトは、スエズ運河株の英国による買い占めや1882年のオラービーによる反乱鎮圧とともに英国の支配下に置かれたが、民族自決運動が高まる中で、トルコと敵対した英国が第一次大戦後の1922年、エジプト王国として名目上の独立を与えた。
英国の駐留兵の撤兵を要求する反英運動の中で、1952年に自由将校団によるクーデターが成就し翌年共和制を宣言。1954年に大統領に就任したナセル中佐はエジプトに残された植民地主義の払拭に努力、農地改革、スエズ運河国有化(1956年)などを断行した。1958年にアラブ民族主義の波にのってシリアと合邦してアラブ連合共和国を樹立したが、3年余でシリアが分離し失敗に終った。
1967年に勃発した第3次中東戦争ではイスラエルの電撃作戦によりシナイ半島を占領されるという大敗北を喫した。
ナセル大統領の下の社会主義体制、更にはイスラエルとの対決のため長期間に亘り軍事予算優先の戦時下体制を余儀なくされたこともあって、エジプトは大きな社会、経済問題を抱えるに至った。
1970年のナセル大統領の急死で後継者となったサダト大統領は、1973年10月の第4次中東戦争を契機としてイスラエルとの和平を進め、経済面では門戸開放政策をとって外資導入を図った。また、外交面では、1972年に約2万といわれたソ連軍事顧問を追放したほか、1976年にはソ連との友好協力条約を破棄し、米国及び西側諸国との協調路線に踏み切った。
1977年11月にサダト大統領はアラブ諸国の国家元首として初めてイスラエルを訪問し、直接和平交渉を進めた。1978年9月には米国の仲介により、エジプト・イスラエル間でキャンプ・デービッド合意が成立し、右合意に基づき、1979年3月にエジプト・イスラエル間で平和条約が署名された。80年1月には両国間の国交正常化が実現した。エジプトの対イスラエル和平に対し、アラブ諸国は強く反対し、対エジプト制裁措置を講じた。
サダト大統領は1981年10月6日の第4次中東戦争戦勝記念パレードに出席中、4名のイスラム過激派に暗殺された。憲法の手続に従い同月14日に国民投票が実施され、ムバラク副大統領が大統領に選出された。
1981年に就任したムバラク大統領は、サダト大統領の親米・親イスラエル路線を継承し、1982年4月、第3次中東戦争でイスラエルに奪われたシナイ半島の返還を実現。また、非常事態令によって、イスラム主義運動を弾圧して国内外の安定を維持。2000年以降には、外資導入を積極的に図り、堅調な経済成長を達成した。他方で、所得格差の拡大、高い失業率、汚職・不正の蔓延や警察機構による強権的な手法に対する国民の不満が蓄積されていった。
2011年1月25日、民主化を求める青年活動家を中心とする民衆の主導により、全国の主要都市でムバラク大統領の退陣を求める大規模な反政府デモが発生。同年2月11日にムバラク大統領は辞任し、国軍最高評議会(SCAF)が国政の実権を握った。
2012年5月~6月の大統領選挙の結果、ムスリム同胞団の公認政党である自由公正党党首のムルスィー氏が大統領に就任。ムルスィー大統領は積極的な外遊や経済改革に取り組んだものの、様々な内政上の懸案をめぐる混乱、デモやサボタージュの頻発、電気や燃料の供給不足、物価の上昇といった政治、社会不安の高まりにより、政権に対する不満が高まっていった。
このような状況下、2013年6月30日のムルスィー大統領就任1周年を機に、全国各地で大規模な反政府デモが発生。各地の衝突や混乱で死傷者が発生した。この事態を受け軍が介入し、7月3日、エルシーシ国防相(当時)が憲法の停止を宣言するとともに、憲法の改正や議会・大統領選挙等の今後の政治プロセスを示す「ロードマップ」を提示、ムルスィー大統領は失脚した。
2013年7月4日にはマンスール暫定大統領が就任、同月16日にはベブラーウィ暫定内閣が発足した。その後、暫定政権反対派は「ムルスィー氏の復権」や「2012年憲法の復活」を求めてカイロ市内2か所で座り込みを続けていたが、8月14日、軍及び警察が座り込みの強制排除を実施し、多数の死傷者が発生した。その後、暫定政府は国民投票による修正憲法制定(2014年1月)等、「ロードマップ」に沿って政治プロセスを進め、2014年5月26日から28日に実施された大統領選挙の結果、エルシーシ前国防相が当選し(投票率約47%、得票数約97%)、6月8日に大統領に就任した。
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